「弱音装置なしで、極めて繊細に」? ベートーヴェン《月光ソナタ》に隠された、1801年のピアノの秘密
楽譜に書かれたイタリア語の指示、皆さんはどのくらい注意深く読んでいますか?
今日は、ベートーヴェンの有名な《月光ソナタ》第1楽章の冒頭に書かれた、ちょっと不思議な演奏指示をご紹介します。
Si deve suonare tutto questo pezzo delicatissimamente e senza sordino.
日本語に訳すと、
「この曲全体を、この上なく繊細に、そしてダンパーを使わずに演奏しなければならない」
という意味です。
さて、この指示、よく読んでみると、いくつもの興味深い発見があるのです。
① 「pezzo」は何を意味する?
まず、イタリア語を少し分解してみましょう。
- Si deve suonare:演奏しなければならない
- tutto:すべて、全体
- questo:この
- pezzo:曲、作品
- delicatissimamente:この上なく繊細に
- e:そして
- senza sordino:ダンパーなしで
ここで注目したいのが、tutto questo pezzo(この曲全体) という言葉。
「pezzo」は英語の「piece」、ドイツ語の「Stück」に相当し、音楽では「一曲」「楽曲」を意味します。
この場合は、《月光ソナタ》の全3楽章ではなく、第1楽章全体を指しています。
つまりベートーヴェンは、この演奏指示を冒頭の数小節だけではなく、第1楽章を通して守ってほしい、と伝えているのです。
② delicatissimamente は、ただ「弱く」ではない!
もう一つ、注目していただきたい言葉があります。
delicatissimamente
ずいぶん長いイタリア語ですね!
もとになっている「delicato」は「繊細な」「優美な」「丁寧な」という意味です。
そこに最上級の意味が加わって、「この上なく繊細に」というニュアンスになります。
ここで考えたいのが、ピアノの音色です。
「小さな音で弾くこと」と「繊細な音で弾くこと」は、必ずしも同じではありません。
ただ音量を小さくしただけでは、旋律の歌い方や音の表情が失われてしまうことがあります。
ベートーヴェンが求めたのは、単なる弱音ではなく、響きやタッチにまで細やかな注意を払った演奏だったのではないでしょうか。
実際に楽譜には、さらに
sempre pp e senza sordino
「常にピアニッシモで、ダンパーなしで」
という指示もあります。
音量だけでなく、音の質と響き方、その両方を大切にしてほしいという意図が読み取れます。
③ 「senza sordino」は、左ペダルを使わないという意味?
ここが今日の最も興味深いところです。
「sordino」という言葉は、一般に「弱音器」と訳されます。
ですから「senza sordino」をそのまま訳せば、「弱音器なしで」。
ところが、1801年頃のピアノにおけるこの指示は、現代のピアノでいう左ペダルの使用禁止ではありません。
ここでいう「sordino」は、弦の振動を止めるダンパーを指しているのです。
ピアノは鍵盤から指を離すと、通常はダンパーが弦に触れ、振動を止めます。
しかし、現代のグランドピアノで右ペダルを踏むと、ダンパーが弦から離れ、音が響き続けます。
つまり、ベートーヴェンはこの楽章を、ダンパーを上げて弦が自由に共鳴する状態で演奏するように指示していたのです。
④ では、右ペダルを最初から最後まで踏み続けるの?
「ダンパーなしで演奏する」
それなら、右ペダルを最初から最後まで踏みっぱなしにすればよいのでしょうか?
実は、ここに楽器の歴史が関係してきます。
ベートーヴェンが《月光ソナタ》を作曲した1801年頃のピアノは、現代のコンサートグランドとは構造も響きも異なっていました。
当時のフォルテピアノは、現代のピアノよりも音の減衰が速く、響きが長く残りにくかったのです。
そのため、ダンパーを上げ続けても、現代のピアノほど音が混ざり合いませんでした。
一方、現代のピアノで第1楽章を最初から最後まで一度もペダルを上げずに演奏すると、和声が濁ってしまいます。
では、どうすればよいのでしょうか?
大切なのは、ベートーヴェンの指示を無視することでも、機械的に守ることでもありません。
ベートーヴェンが当時の楽器で実現しようとした響きを、現代のピアノでどのように再現できるか。
その視点で考えることです。
ちなみに、ベートーヴェンの弟子であったカール・チェルニーは、この楽章のペダルについて、低音が変わるたびに踏み直すという考え方を示しています。
現代のピアノでも、和声の変化に応じてペダルを踏み替えながら、途切れない響きを目指すことが、一つの有効な方法でしょう。
⑤ 楽譜を読むことは、作曲家の時代を知ること
今回の「senza sordino」のように、楽譜に書かれた言葉は、その時代の楽器の構造や演奏習慣と深く結びついています。
現代のピアノの常識だけで楽譜を読むと、作曲家が本当に求めていた音楽を見落としてしまうことがあるのです。
これは、私がソナチネの指導でも、とても大切にしている視点です。
クレメンティ、クーラウ、ドゥシーク、ハイドン、モーツァルト、そしてベートーヴェン。
彼らが生きた時代は、ピアノという楽器そのものが大きく変化していった時代でもありました。
鍵盤のタッチ、音域、ダンパーの仕組み、音の持続、そして音色。
こうした違いを知ることで、楽譜の見え方は変わってきます。
そして、生徒さんへの声かけも変わってくるのではないでしょうか。
例えば、「ここはもっと小さく弾いて」という指導から、
「どんな響きが残っているかな?」
「次の和音に変わったとき、前の音はどう聴こえる?」
「繊細な音って、どんなタッチで生まれるんだろう?」
という、耳と想像力を育てる指導へ。
楽譜に書かれた一つの言葉から、音楽史、楽器の構造、そして演奏表現へと学びを広げられる。
これこそが、楽曲を深く学ぶ面白さだと思います。
皆さんも、今レッスンで使っている楽譜のイタリア語を、ぜひもう一度眺めてみてください。
何気なく読み過ごしていた一言の中に、作曲家からの大切なメッセージが隠されているかもしれません。
ユンカーマン久美子